

私の見た日本シリーズの一環として近代建築2010年9月号に書いたものです。
introduction
今思えば、私はかなり早い時期から日本と接する機会があった。
初めて日本に来たのは小学校低学年のときの旅行で、
さらに小学校5 年のとき、福井県の小さな町でホームステイをした機会があった。
日本語をほとんど理解できないまま2 週間ほど山奥の小学校に通っていた。
学校まで山を越えて歩いていくことや、川の水が飲めること、
バンコク生まれバンコク育ちの小学生の目にはそれらすべてが新鮮で、
なんだか物語の中にいる気分だったように思う。
さらに感動したのがトイレのウォッシュレットで、自然のど真ん中、全然都会ではないところなのに、
トイレにはいっぱいボタンがついていて、勝手に水を出したりできる。
これぞドラえもんの国!っと感動したものだった。
そういった「意外性を伴う共存の状態」、そういう状態を私は、
日本に住んで10年経った今でもすごく惹かれる。と同時にそれを日本だと感じたりする。
scene
成田から東京に戻るとき、電車から見える風景はいつも私を安心させてくれる。
日本に帰ってきたんだなぁと思う。
考えてみると、その風景は特別にきれいでもなく、
伝統的な日本が見えるものでもない。
また、日本を旅行すると繰り返して見えてくる風景がある。
どこに向かっていこうとも現れては消え、消えては現れる住宅風景。
バルコニーから見える干したてかもしれない布団の姿。
背景に見える山々。さらにどこにでも見られる、似たようなアーケード街、
電線、コンビニ、パチンコ、大型ドラッグストア、小学校、立ち並ぶ町屋や、路地、坂道。
そして、都会から離れれば、山に囲まれた狭い土地に立つ、きめ細かい家たちや、その家たちの間に広がるきれいな棚田。
多様な風景はそれぞれ同様に、今日本にいるんだと知らせてくれる。
では具体的に何を日本だと感じたのだろう。
character1 気配り
例えば、ひつまぶしの食べ方にすごく感動した覚えがある。
おひつに入ったうなぎののったご飯をまず4 等分して、最初はそのまま食べ、
2番目は薬味と一緒に食べ、3番目はお茶漬けにして、
最後は、なんと、今まで食べた中で自分の一番好きな食べ方で食べるというのである。
同じ食べ物を、食べ方によってこんなにも贅沢で豊かな気分にしてくれるものなんだと、感動したものだ。
かなり話は飛ぶが、京都の西本願寺の飛雲閣と書院を見に行ったとき、
天井や壁に描かれているものについてお寺の方の説明を聞いて、思わず笑った覚えがある。
まず書院の天井の絵。何種類もの花が描かれており、よく見ると、
それぞれ違う種類の花が描かれている。さらに仔細に見ると見ると、
そのなかのいくつかは白い布が巻かれており、しかもそれは乾燥しやすい花だけに巻かれていた。
乾燥しやすい花が枯れないようにというのが理由だという。
さらに歩き進めると、また様々な書物が描かれている天井がある。
よくよく見るとところどころ猫が描かれていた。
説明によれば、古い書物にはねずみがよく近寄って、食べにくるので、
その守り役として猫が描かれているという。
とてもすてきな気配り、そして遊び心だと思う。
ひつまぶしの話と天井の絵の話で共通しているのは関係するもの、
使うものに対する気配りが表れており、そして、
それらが将来のことを予測した気配りだということである。
玄関で靴を脱ぐときもそうだ。日本では、後で出るとき、すぐに靴が履けるように、靴の向きを直したりする。
こういった日常の習慣からも、ユーザー重視や先を予測した気配りを垣間見ることができる。
こういった気遣い、または先を予測した気配り、
そして小さなものひとつひとつを大事にしていることが、
日本のものづくり文化を豊かにしているのではないかと思う。
character2 ありのままと放置性
私は東京の神田川にとても惹かれる。一度神田川を回る小さな船に乗ったことがあるが、
私はそこで、東京の断面にいるような感覚を覚えた。
なんだか人々の日常を覗き見ているような気持ちになったのである。
そこには住宅街の規模のものから、大きな集合住宅、オフィス、さらに、御茶ノ水あたりのダイナミックな緑、
水道橋あたりの大胆にかかっている高速道路、本当に多様な風景がある。
多くの建物はほとんど川を「無視」して、川にお尻を向けているかのように見えるが、
ところどころ、この川がまだ町の顔だった頃の姿も見られるし、
ところどころお尻に顔をつけようとしている姿も見られる。
この放置っぷり( ありのままの姿)に私は人間らしさを感じる。
ほとんど規則なしに混同しているとはいえ、歴史がそのまま見えてくるのである。
巨人の町と小人の町の共存のようなスケールの錯覚や時間の流れがそのまま感じ取れるところが東京らしく思える。
歴史保存地区である倉敷を少し高いところにある神社から見たことがある。
その保存地区だけ屋根が異様に揃っていた。かわらの色や、反射の具合、方向、すべてが揃っていて、
不思議な気持ちになったのである。
私はそのとき、愛する東京の屋上を思い出した。
そこには何もかもが揃っていない。かわら屋根もあれば、屋上をもつ建物もある。
同じかわらでも、色も、反射の具合もさまざまで、同じ屋上でも、
機械だけが置かれているところもあれば、もはや森みたいなところもある。
思い思いに暮らしている、ありのままの姿。
そういうのも、歴史保存地区と負けず、すてきだと思う。
少し話は変わるかもしれないが、京都の出町柳駅近くの鴨川デルタを眺めるのも好きだ。
川から道路まではかなりのレベル差があり、一番高いのが道路で、
並木を挟んでスロープをおりると散歩道があり、さらに降りると、川辺に近づける。
川の幅は広く、その真ん中に中州がある。
片方の川の端っこから中州を通って、もう片方の川の端っこまで、
大きな石がちょうど川が渡れるように、距離をとりながら、置かれている。
遠くから見ると、走る車や、立ち止まって川を上から眺める人が見える。
さらに両側に犬の散歩や、自転車で通り抜ける人、ベンチで座っている人たち。
川では、中に水遊びしている人、石の上に寝ている人、陸の上で思いっきり歌っている人、
そして、気にせず絶えず流れる川がある。
ずっと眺めていられる光景だ。放された場所と呼べるかもしれない。
私はそこでも、少し神田川や屋上を思い出した。
似たような体験はたとえば台東区谷中あたりにある初音公園や、
東京大学の安田講堂前や建築学科がある工学部一号館前。
非常に密度が高い東京でもそういう場所がまだ存在し、
人それぞれがばらばらに、けれども同時に、いろんなことをしている。
これもまた「ありのまま」である。
conclusion:
2types of character and its balance
小さな物事へのきめ細かい気配りそして不思議にも放置される場所や物事。
この2つの性質はきっと外国から来た人であれば、
だれもが少しは感じ取る、日本の不可思議な状態ではないかと思う。
個人的に思うのはそれが不可思議に思えるのはおそらく、
この2つの性質はそれぞれグラデーションをもった性質だからである。
つまり「気配り性質」は、他人を思いやる気持ちやユーザー重視、
さらには小さなことを大切にする精神にまでつながっていくが、
その度が過ぎればもしかしたらあの有名な「日本人はNOといえない」や「まわりくどい」などの評判にもつながるのかもしれない
(相手の考えを先読みしすぎるがために?)。
同様に「放置する性質」は、ありのままの姿を愛する精神、
手を加えないことに価値を感じる精神、さらには人と人との距離感、
干渉しない体質につながるのではないかと思う。
同時にその程度が大きいとそれは放置、無視、他人行儀などとなってあらわれる。
最初は、この対立する性質の両立にすごく戸惑ったのだが、今ではその微妙な距離間を心地よく感じたりする。
そして私はこの2つの性質の共存、そしてそれらの振れ幅は日本の多様な風景をも説明できるような気がするのである。
日本各地の多様な風景がもつ「日本にいる」という知らせは、
それらが共通して2つの性質を持っているからではないかと。
つまり昔の町並みと今の現代都市の風景がこんなにも違うのは、
この2つの性質のグラデーションとバランスが変わったからと言えるのではないかと思ったのである。
もちろん社会の規模や使う材料や技術が変わったのは大きな理由のひとつである。
昔の社会は、規模も今に比べて小さく、材料や構法も限られていたし、職人もそろっていた。
それに対して大きくなって、そして人口密度も高くなった社会には幅広い工法と材料の選択肢があるのに対して職人は少ない。
それだけで、例え同じ気配りでも、配りようが違ってきてしまう。
小さな社会では、人と人の輪は広く大きく、自然や気候はもちろんのこと、
町並みもその気配りのうちに入りそうではないか。だからこそとても調和された町並みができているのだと思う。
一方で、大きくなった社会では、一人一人がひとつの社会の一部であるという認識は少なく、
個人主義が大切にされている。つまり大きくなったのは町や都市で、
本当の社会は非常に小さくなったのではないかと思う。
ある意味町レベルでの調和は放置され、本当に個々のユーザーのためのものになっている。
個人的な印象だが、昔は気配りの対象は細かいが広く、
放置する対象は、主に自分の力ではコントロールできない自然に向けられた。
つまり、自然をコントロールしようとせず、それをそのまま受け入れようとしていたように思う。
わびさび精神にもつながるのではないか。
それに対して現代の都市風景は現代建築ひとつひとつをとると、
非常によく考えられていたり、素晴らしいものは多いが、
気配りの範囲が狭いからか伝統の街並みのようにはけっしてならない。
しかしそれをよくないといっているのではない。
むしろそこでは、拡大しすぎた都市をコントロールできないものとして、
謙遜に受け入れているようにも見えるのである。
私はいつどこで何が出てくるかわからない、それぞれの時代の価値観がそのまま記述されているかのような町をも、魅力的だと感じる。
ただ、それも「度」や「バランス」の問題であるから、要注意なのかもしれない。
著者:ポーンパット シリクルラタナ



